野田聖子総務相は今回も出馬さえできなかった。8月31日に記者会見を開き、9月20日に行われる自民党総裁選に出馬しないことを表明した。20人の推薦人を集めることができなかったためだ。
「極めて厳しい状況にもかかわらず、私を支えていただいた方々には心より御礼申し上げます。こうした方々へのご迷惑も考え、告示まで約1週間ございますが、本日判断をさせていただいたところです」
■“次”を目指す決意を表明
野田氏は「前回と比べて進んだこと」として、反対だった浜田靖一元防衛相や小此木八郎防災担当相が推薦人の中心となってくれたこと、また国会議員生活25年間の集大成として野田聖子の政策集(8月8日に刊行された著書「みらいを、つかめ」)を発表できたことを挙げた。
会見で野田氏は「私は自民党で最多当選の女性衆議院議員として先頭に立っている。先輩がいない中、私が覚悟をもって多様性の中の中核である女性候補が出てくる環境整備をしなくてはいけないと思っている」と、諦めずに“次”を目指す決意も見せた。
このような野田氏に対して「敗者への同情」ということなのだろうか。記者から出てくる質問は「なまぬるい」ものばかり。
肝心の「仮想通貨疑惑」が総裁選出馬辞退にどう影響したのかという点について筆者が質問しようとしたが、その機会は与えられなかった。野田氏が会見場に入り、退席するまでわずか15分。政治家にとって節目となる時にこのような制限をするべきではないだろう。
その野田氏が早くから「総理を目指す」と宣言していたことは有名である。1993年の衆院選に29歳で初当選し、37歳だった1998年7月には小渕内閣で郵政相に就任。古賀誠元自民党幹事長や野中広務元官房長官など“重鎮”に可愛がられ、2003年には「総理になるためには派閥にこだわらず広く支持を集めたい」として所属していた番町政策研究会を脱会している。
大きな試練は2005年の郵政選挙だった。野田氏は小泉純一郎首相(当時)が提唱した郵政民営化に反対したために佐藤ゆかり氏を刺客に立てられ、なんとか岐阜1区で当選した後には自民党を離党せざるをえなかった。
翌2006年12月には復党が許されたが、それは安倍晋三首相の意向があったためだ。それゆえか、安倍首相に対抗して総裁選に出馬しようとすると、常に「恩知らず」との批判がつきまとう。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180903-00236075-toyo-bus_all
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