<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>
全身がんと戦いながら、カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した「万引き家族」をはじめとするさまざまな作品に出演してきた、女優の樹木希林さんが15日に亡くなった。75歳だった。
希林さんで一番印象に残っているのは、子供の頃に見た74年のTBS系連続ドラマ「寺内貫太郎一家」(74年)のきん婆ちゃん。
沢田研二のほほ笑むポスターを見つめて「ジュリ~~!!」と身もだえするきん婆ちゃん。思えば、その頃の希林さんは、まだ31歳で70歳の役を演じていたのだ。名前も、まだ悠木千帆だった。
その後77年に、オークションで芸名を売って、樹木希林になった。記者自身もなかなか樹木希林という芸名になじめず、ついつい悠木千帆がと口にしてしまうことが度々あった。
4年前の冬に俳優の岸部一徳(71)をインタビューした。岸部は、その昔、ジュリーとともに、グループサウンズ(GS)のザ・タイガースで活躍、ベーシストでリーダーを務めていた。その時の名前は岸部修三。愛称はサリーだった。役者になってから使った「一徳」という名前の名付け親が希林さんだった。
岸部のインタビュー原稿に付けるコメントを希林さんに依頼した。希林さんは芸能事務所に所属せず、取材依頼などは全てFAXで受けていた。
FAXを送ってしばらくすると、ケータイに見知らぬケータイから電話があった。希林さんからだった。「樹木希林です。そばにいる人のケータイを借りてかけてるから、すぐ折り返して」
希林さんは、成田空港へ向かう車の中にいた。出掛ける時にFAXが届き、ケータイを持っていなかったので、一緒にいた人のを借りてかけてくれたのだ。
「運がよかったわね。海外に行っちゃうところだったのよ」と言いながら、快く引き受けて、岸部について話してくれた。
当時のコメントを載せておく。
「日本の映像の世界で、絶対に必要な役者になったのを実感している。GSの1人で将来性は分からなかったけど、未知数の面白さがあった。.
歌手(ボーカル)じゃないからいいと思った。予想のつかない感じがあった。1回、大人気者になっているから、少々のことではフワフワしない腹の据わり方があった。
妙な上昇志向がなくて、いいものが出てくると思った。一徳という名前は私が無理やりつけたんだけど、当時は気に入らなかったと聞いて笑った。修三より、いいでしょう?」
希林さん、ありがとうございます。安らかに眠ってください。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181001-00345651-nksports-ent
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