落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名:椎名巌=しいな・いわお)さんが2日、慢性閉塞性肺疾患のため横浜市内の病院で亡くなったことを受け、歌丸さんが生前に会長を務めていた落語芸術協会の会長代行・三遊亭小遊三、歌丸さんから『笑点』の司会を引き継いだ春風亭昇太、弟弟子の桂米助、総領弟子の桂歌春が3日、都内で会見を行った。亡くなる2ヶ月近く前まで高座に上がり、噺家としての生涯を全うしてきた歌丸さんの最期の様子をそれぞれの立場から語った。
小遊三は「ご家族と一部の方が(看取って)残念ながら、私はできませんでした。最期に会った時は6月26日に病院に行った時だったんですけど、『協会の方針はこうだからね!』と言うのがすごい迫力でした。『師匠そんなに力まないでください』と早々に退散しました」と回顧。
「最期の死に物狂いの努力というものを嫌というほど見せつけられているんで『あぁー楽になりましたでしょうね』ということでしょうね」と天を仰いだ。
歌丸さんから日本テレビ系演芸番組『笑点』の司会を引き継いだ昇太も「小遊三師匠がおっしゃっていたように、僕は直接指導されたわけじゃないですが、高座に立っている姿勢みたいなものを見せていただいて、とてもありがたかったなと。
本当にカッコよくてステキな師匠でした」と感謝。米助は「僕は本当に下っ端の時から面倒をみてくれましたので、たった一言『師匠、ありがとうございました』。これしかないですね」と涙をぬぐった。
総領弟子という立場から歌丸さんを見てきた歌春は「歌丸はとても意思が強くて、運が強くて、芯も強い師匠だと私はずっと思っていました。ですから、苦しい時でも見舞客に対しては『苦しい』とか『痛い』とかの弱音を吐くことはめったになかったんですけど、
さすがにその危篤を過ぎて意識が回復して、苦しいのが実感するようになってくると『苦しい、楽にしてくれ』と言っていました。そういう時に『そういうこと言ったらダメですよ。まだ、お客さんが待っているんですから頑張りましょう』と言ったんですけど、その言葉がとてもつらかったですね」と率直な思いを吐露。その上で、こう続けた。
「こんなことを言っていいのかどうかわからないですが、本当の安楽死というのは、一番苦しい時にさせてあげるのが、意味があるんじゃないかなと、その時は思いました。本当に苦しかったんだと思います。
だけど、それを乗り越えて生き返った訳ですから、また何度も何度も奇跡を起こしているから、またきっと蘇るだろうと思って、そのことは言いませんでしたけど、やっぱりそれだけつらいとか、本当に見ている方もつらいし。
最後まで呼吸器をつけていたものですから、鼻の頭がすりむけていまして、いつも痛がっていたんですけど、これが痛がっていることだったんだなと。2ヶ月も飲み食いできないのもツラいし、呼吸も苦しいし、つらかっただろうし、本当に全部から解放されて『師匠、お疲れ様でした』という言葉を最期にかけました」。
歌丸さんは1936年横浜市生まれ。51年、五代目古今亭今輔に入門、のちに桂米丸門下となり68年に真打昇進。2004年からは落語芸術協会の5代目会長も務めた。最後の高座は、今年4月19日の国立演芸場定席での演目「小間物屋政談」となった。11日に、椎名家・落語芸術協会の合同による告別式が、神奈川・横浜の妙蓮寺にて行われる。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180703-00000314-oric-ent
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