ラジオパーソナリティの日高晤郎さんが3日、悪性腫瘍のため亡くなったことが分かった。74歳だった。長年ラジオ番組を放送していたSTVラジオの公式HPで発表された。日高さんは78年にSTVラジオで番組を担当して以来、40年に渡って同局の看板パーソナリティとして活躍。83年に始まった「ウイークエンドバラエティ日高晤郎ショー」は今年まで35年、毎週生放送を続けていた。
公式HPによると、日高さんは病気療養中だったが「悪性腫瘍(脂肪肉腫)により4月3日、午前10時48分、永眠いたしました。享年74歳でした。心から哀悼の意を表しますとともに、生前に賜りましたご厚誼に感謝し、謹んでお知らせ申し上げます」とつづられ「1978年34歳の時にSTVラジオの番組を担当して以来、40年間に渡ってSTVラジオの看板パーソナリティとして活躍されてきました。1983年39歳の時にスタートした『ウィークエンドバラエティ日高晤郎ショー』では歯に衣着せぬ語り口が人気を呼び、以来35年間に渡って毎週9時間の生放送を続けてこられました」と紹介。
今年に入ってから悪性腫瘍が見つかったといい通院していたというが「本人の強い意志により、先月までステージの司会進行、番組出演などを精一杯こなしてこられました」とギリギリまで仕事を続けていたが、この日の朝に容体が急変し、亡くなったという。
日高さんはラジオパーソナリティの他にも洋画の吹き替えで「007ゴールドフィンガー」「007ロシアより愛を込めて」のショーン・コネリーの声なども務めた。道民にとっては週末を知らせる“声”だったことからネットでは「ぽっかり空いた穴をどう埋めればいいのか」「楽しい放送をありがとうございました」など惜しむ声が殺到していた。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180403-00000050-dal-ent
みんなのコメント
80年代の後半の数年間、毎週のように聴いていたっけ。。。
晩秋のもの淋しい夕方、車を走らせながらふと耳にした「街の灯り」。。
あのオンチでいつまでたってもへたなまんまのあの唄声に、
なぜか涙した日のことを昨日のことのように。。。
あの口の悪い、何事にも文句たらたらのおっさんなのになぜかいいこともいう、日高晤郎さん。。いなくなっちゃったんだね。。。
もう、聴けないんだね、あのへたくそな唄。。。
やっと来たはるなのに。。淋しいです。。
あの時の元気一杯の姿がもう見られないかと思うと残念でなりません。
ご冥福をお祈りします。
晤郎さん、ありがとう
ずいぶんあっけなく世をさってしまったもんだ。
まだどこかで生きているってことはないのか?それくらい信じられない。
土曜の車のお供には必ず流れてた、晤郎さんの声。
残念です。本当に残念・・・・。
昨秋から仕事で北海道に頻繁に
行っており、レンタカーの中で
聞いていました。
最後の放送も…。
初めは、
『なんか感じの悪いじいさん
だな』と思ってましたが、徐々に
長く続いている理由がわかって
きたような気がしてました。
ご冥福をお祈りいたします。
だから良いリスナーではなかったでしょう。
それでも、土曜日の仕事は好きだった。
それは「日高悟朗ショウー」有ったからだと思っています。
悟朗さんの声を聞いていると勇気がでました。
贅沢な時間でした。
本当に有難うございます。
STVは、この偉大な遺産を大切にしてもらいたい。
ご冥福を祈ります
ラジコプレミアムに入った理由は、これが聞きたいからだった。
嫌いならコメントするな
アホコメントしてるのの
100倍凄いわ
只々残念
25年前、進学で札幌へ向かう車中、
頭のいいおじさんだなと
関心して聞いていたの思い出します。
学生だった自分も結婚をして
子供も産まれ、子供達も高校生です。
その間ずっとやっていたんだと思うと…
最近も時々何気なくラジオを付ければ
ワイワイ番組やってる声を聞いていました。
好きかって言う毒吐くおじさん。
言い過ぎだろと思う時もあります。
でもそれは芸風だと思います。
最後までブレることなく
芸人でしたね。
あんな素敵な笑顔をする
悪い人間はいませんよ。
寂しくなります。
さようなら晤郎さん。
実力的に雲泥の差があっても、叩きまくってうた、北野武さんや軍団VS社長のゴタゴタについて、ナニを言うか楽しみだったのに。
先々週聞いたとき途中で走雄介?かな交代して、先週は吉川アナが代役でしたのでいよいよと思ってました。
いろんな意見と見方がありますが、芸のみ見ると凄い芸人はいっぱい要るが話芸のみ見ると初代桂桂春団治のようです
ご冥福お祈りします
合掌
渾身の生きざまを見せて頂いたと思ってます。
何だかんだ言っても凄い人だったよ。
安倍を本気で叱るパーソナリティがいなくなって残念だ。
昔、『私の本棚』で3回当選して計15冊も頂きました。
本当にどうもありがとうございました。
これからはゆっくり休んで下さいね。
今夜は「街の灯り」ヘビロテします。
合掌。
全盛期(?)には、STV制作の「スーパーサンデー」というテレビ番組もあった。「進め!電波少年」や「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」(ともに日本テレビ)も吹っ飛ばす?(日曜22時30分からの1時間番組だった)活躍。
私はあまり見聞しなかったが、北海道の人ならだれでも知っているパーソナリティーでした。
ご冥福をお祈りいたします。
たらればになってしまうが、術後無理せず休養して治療に専念していれば・・・
それも承知の上で出演していた事は言葉の端々から聞こえてきたけど、まだまだ聞きたかったな。
まだ実感がわかない
・・・まだ死ねないって、やりたいことがあるって言ってたじゃん!
晤郎さんが1番悔しいだろうな
これまでの言葉や楽しい時間忘れずに大切にします。
しかし、本当に呆気無くこの世を去るとは……。
本当に、信じられない。
心より、ご冥福をお祈りします。
ご冥福をお祈りします。お疲れ様でした。
その流れで土曜日は20年間、毎週日高晤郎ショーで起きていました。
メールアドレスはまだなく、電話番号とFAX番号だけの時ですね。
STVの電話番号は北海道で一番有名な番号ですね。
今の世の中じゃあれだけズバズバ言うのはいろいろ大変だろうとおもっていましたが、逆に信念を感じてました。
先週のピンチヒッターの方が悲壮感押し殺した様子でしたので、まさかもしや・・・と思いましたが。。。
ご冥福お祈り申し上げます。
本当に残念です。
吉幾三にテレビ番組つぶされたのに
それでも変わってない様子を
みて深い仲なんだなと思いました。
さみしいなぁ…。
次に続けられる人が出れば亡くなった御本人も喜ぶだろう。
時には優しい言葉を発していた
日高さん。
ご冥福をお祈り申し上げます。
落語も好きだった。ハッキリと物を言う尊敬できる人が亡くなるのは辛い。でも天国には、日高さんの愛する雷蔵さんと勝新さんがいるから、
複雑ですが笑顔で見送るべきかも。
合掌
天寿を全うしたとは言いません。
きっとまだまだ生きたかったと思います。もっと時間が欲しかっただろうとも思います。
悪性腫瘍。怖かったでしょう、苦しかったでしょう、無念だったでしょう。
この続きは、天国から放送してください。
毎週、ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
東京と東京で起こっている出来事を勝手に解釈して、文句を言ったり説教をしてローカルのリスナーから人氣を得るというワンパターンな構造ですね。
寅さんシリーズとShot○nと同じで、長年に亘って世間では何故か根強い人氣を博す昭和時代丸出しのコンテンツです。
けれども、ローカル番組で東京を貶すワンパターンの手法も、黒電話&青函連絡船&真空管テレビ時代でしたらローカルだけの内輪話で終わっていたのですが、現在はインターネット時代で全国のローカル番組がウェブで見られるので、その手法も成り立たなくなり、渥美清氏独りに頼り切っていた寅さんシリーズと同様に、ワンマンの日高晤郎氏が逝去されて、番組も終焉を迎えそうですね。
謹んで日高晤郎氏のご冥福を心からお祈り申し上げます。
厳しい方でした、優しい方でした。
ご冥福をお祈りいたします。
しばらく聞けなかったが最近radikoで聞けることを発見!懐かしくて毎週楽しみにしていましたが・・・・
ご冥福をお祈りします
本当に遺言なるとはただただショック
うそならうそって言ってください!
実家に戻ったため、以後聞くことはなかったが、信念を持って続けて
いたんだなと。ご冥福をお祈りします。
それにしても、長く続くのは、ラジオ番組の特性かもしれないが、
パーソナリティーの高齢化は顕著。今住む関西だと、道上洋三さん
(ABC)と浜村淳さん(MBS)の二代巨頭が40年超え。
体調に気をつけて頑張ってほしいが、ラジオ局は、後継者もしっかり
育ててほしいところである。
サッポロビール クラシック 初代の広告はこの人。
スタジオ見学にも行ったし。
今までありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
土曜日にラジオつけたら必ずしゃべって怒って笑っているオッサン
過去に私の家族全員で写真を撮らせてもらった。お礼を言いたくてまたスタジオに行こうと考えてた。しかし息子からのメールは晤朗さん亡くなったと知らせ
晤朗さんごめんなさい
私の心の支えでした
本当に有り難う御座いました。
北海道を離れて20年以上。
しかし5年くらい前からラジコプレミアムで
晤郎さんの放送を再び聴きはじめました。
次から次へと出る言葉のシャワー。
まさに話芸です。この人にかなうラジオ芸人は
しばらくはでないでしょう。とても残念です。
ただただお疲れ様でした。