【子役殴る演出 批判受け監督が謝罪】https://t.co/992gsoaUNu
映画監督の小林勇貴氏は28日、過去作の撮影現場で子役を実際に殴る演出があったことへの批判を受け、自身のInstagramアカウント上で謝罪文を掲載。当時中学生だった俳優が馬乗りになった状態で頬を殴打される様子などが撮影されていた。
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) April 28, 2022
ネットの反応
演技や、演出を指示するのと何かを相手に身に付けて貰いたくて何かを指導するのは違いますからね。
指導内容、指導方法が間違っていると思います。普通の学校や会社でもコンプライアンス違反と言われる人格否定とか体罰的。
難しいですね。そういった苦痛、苦悩、不安、絶望を味わいながら役の気持ちを考えて演じることが出来れば良いのか、何も演じられずにできなかった場合は、役者は才能の無さを悔やめば良いのか。
そんな生きるのに反する感情に時間を費やさず、難しい感情や複雑な心情の役を演じる指導法が日本にも広まれば、役者の生きた豊かな感情ともっと深く大きな演劇がたくさん生まれるのになぁと思います。
ちょっと本論からそれるけど最近、ウィル・スミス氏や某強豪校など「暴力」が議論になることが多い。
手を上げる事だけではなく言葉や態度の暴力もある。他人の尊厳を傷つける事は「暴力」だと思う。
「暴力」をもって他人を従わせるのは野蛮だ。
では、「厳しく叱りつける」ってどこまで許されるんだろう?
真に相手を思うあまり感情が激する事は全て悪なんだろうか。
喜怒哀楽の「怒」だけは悪なのか。
そこを制限された中で子供達は、感情表現のボーダーライン・他人にも激する感情があること・どこまで踏み込むと他人の尊厳を犯すことになるか、をどこで実践的に学ぶのか。
本件への意見ではなくて、昨今色々考えて悩んでしまってる事です。
こう考えてしまう事自体の良し悪しも含め、色んな考えを聞いてみたいです。
「他人の尊厳を傷つける」とか「どこまで」とか。「どういう言動により、どんなふうに、それをどれだけ感じるか」は人によってそれぞれ違いますから、一律の基準で示すことは難しいことでしょうね。怒りは大切な感情であると思う。傷つけようとする意図ではなく大切なものを守ろうとするために生じる「怒り」は必要なものだと思う。大切なものが蔑ろにされているのに怒らずにフラットでいる人間がいたら怖いよ。
暴力は一瞬ですむ。叱ることは諭す事であり、それには時間と労力、何より愛情が必要。厳しくという意味がわからないが、激しいのは叱るではなく怒っているだけだろう。教育とは大変
「真に相手を思うあまり感情が激する事は全て悪なんだろうか。」
この言葉が全てだろう。感情的にならなきゃ伝わらない時もある。
このすばのダクネス(ララティーナ)にとってはご馳走。
アンガーマネジメント読んでみたらどうでしょう。
怒 は悪ではありません。
暴力何でもダメ、感情的に怒るのダメ、とか言い出す時代ならさもう子育てとか育児とか無くせばいいよね。冷静に叱るとか叱ると怒るの違いとか理屈言ってないでさ。だいたい感情で起こるから親子なのであるし愛情があるってこともあるし、冷静に叱ることが素晴らしいという前提が間違ってることって多いんだけどね。しかもきちんと叱りましょう、叱らない親の躾が悪いとか 笑、叱っても叱ってもダメでちょっと怒ると怒りすぎだの虐待だのね。
というか、世間、公共の場では大人たちがスーパーでうるさいだの子どもの声、はしゃぐ音がうるさいだの一番感情丸出しで文句ばっか言ってるのが現実だけど。
もう子育てを親に任せず文句ばかり言う時代なら世間がみんなで躾をすればいいし、何か問題が起きても法律で罰すれば?と思うわ。
痛みを知らないと、相手への痛みを知らないから、いじめ等に繋がりやすい。
力加減を知らない、感情的になりやすいのが、暴力になる。
昔は、力加減が分かっていたみたいだから、大げさになることが無かった。
温故知新とは、よく言ったものだ。
はいはいw
演劇をやっていましたが、「追い込まれた人間が出せる表現」こそが本物だ!という考えを持つ演出家は多いです。たぶん本人達はそれが信頼であり、愛情があるからこその厳しい稽古だと思い込んでいます。
黒澤明監督への憧れか、とにかく厳しいのが正義だと信じています。
物を投げつけたり人格否定をしながらも「お前は見込みがある」と言い、追い込んで追い込んで、精神が破綻する直前になって、何か悟ったような見違える演技を引き出そうとします。
…たしかに、そうして追い込まれて、急に何か目覚める瞬間がおとずれ、本番だけ別人のような良い芝居ができた経験もありました。
だけど、その舞台のあと何ヶ月も精神を病み、演劇どころか社会生活も送れないような状態になったりしました。
そもそも精神を病まないと芝居ができないのもおかしい話です。そのまま精神病になった人も見てきました。
厳しすぎる演出はリスクが高すぎます。
演技とは非日常において日常を表現できる
日常において非日常を表現できる
これが演技であると教わりました。
バイオレンスの演技において実際の暴力を用いた時点でそれはリアルであり演技ではありません。
濡れ場において実際の行為に及べばそれは演技でも演出でもありません。
なので限界がどうのこうのと宣う演出家や監督は自らのスキルの無さを演者にかぶせているだけと感じます。
人は空を飛べないし魔法も使えないけどもそれすらもあたかも存在し得るように演じ表現することこそがクリエイターたる存在では無いでしょうか。
舞台じゃないけど「ダークナイト」のヒースレジャーの、憑依したような怪演は凄まじかった。どういう方法で役作りしたか詳しくは知らないが、アメリカなので少なくとも他人に追い込まれたり強制されて仕上げたものではなく、自発的に近づいていったものだと思う。
ただ、あの域に行くとしたら、病んだり、ハリウッドなら酒や薬物依存になったりもするだろう、とかつて小栗旬が沢尻エリカに諭してた。
なんにせよ、「圧倒的な才能の持ち主」が存在する演劇界で、匹敵するレベルに近づいていくには、生やさしい道を辿るわけではないというのは想像できる。
そこに至るために、厳しい方法とる人もいるんだろうが、その方法が融通の効かない一辺倒なものしか持たないようでは、今の時代、生き残るのが大変だと思う。
そういうやり方がその演出家なり監督の限界ってことですよね。それを本物の演技とするのか、ただの演出側の実力不足とするのか、全てCGすればOKなのか、映画舞台の幅はどんどん狭くなっていくんでしょうか。
蜷川幸雄の灰皿投げなんかは有名ですよね。
他にも色々聞いたことはありますが、結局ニュアンスを言語化できない、演出家として本当の意味での演技指導ができないことの誤魔化しですよね。
コメ主さんと同じような精神的に追い込まれるような演出を長いこと受けていました。そこを辞めて7年近くたちますが、
いまだに夢に見て、
動悸が止まらず、
冷や汗をかいて目を覚ますことがあります。
稽古中に手の骨を折り、
肘のところまでギブスをはめていたのですが、
ハーネスなしで10mの鉄柱を登らされました。
「もっと早くのぼれないわけ?」とイラッとした口調で言われていました。
「○○さん(私のこと)はほんとによく稽古するよね。でも緊張しちゃうよね。
そういう人は死ぬほど稽古したらいいよ」と
冷たく言われました。
その人の前だと失敗するのが怖くて、
緊張してしまっていました。
全部自分の能力のなさだと思って、
自分を責めていました。
周りの俳優も、
私のことを馬鹿にしていると思っていました。
過食嘔吐してました。辛かった。
辞めて実家に帰ったら、
過食嘔吐は治りました。
映像を見たけど撮影が終わっても止まらない涙と嗚咽、本当に酷かった。
演技ではなく本気で平手打ちしてたしほとんどの演者が笑いながら振り返ってたし、撮影に参加してたほとんどの人の感覚が歪んでいたように思う。
いたいた。
まあ、何も考えてない監督や演出家に限ってそう
考えてないからやってほしいことを言葉にできない
やってほしいことを自身がわかってない
自分の力不足が原因て不満足を感じてる権力者はいる
ガラスの仮面を見て育った世代としては演劇って厳しい世界なんだなぁとは思ったけど、こんなの間違ってるから止めさせないと!とは思わなかったな。
そういう面もある業界って事で、あんまり第三者が首突っ込むのもどうかと思うよ。
私は、スタニスラフスキーシステムをやっていましたが、そのようなことは一切ありませんでしたね。なぜ灰皿をなげるのか?
ただ非常に緻密に行動を積み重ねて、全てが計算された偶然のような難しさがありました。細いロープを渡っているような。
これって演劇だけではなく、教育現場やあらゆる企業にもある問題ですよね。
挙句の果てに、
躾のためだった、愛情はあった
と言いながら子どもを死なせたりするわけです。
ほとんど、危険思想です。
追い込んで上手くいく役者さんと心が折れてしまうのとどちらが多いのか…
やった側は「あいつはダメだ」の一言で片付けてしまうんだろう
役者になるためにはこれくらい耐えなきゃダメだ…の反骨精神は大事だと思うけど、一歩間違えば、暴力が黙認されたり、立場を利用した性被害に繋がったりするんだと思う
小栗くんたちが作りたいようなブロードウェイのように役者の組合を作って権利保証をしていく必要があるのかもしれない