【独自】武田信玄から織田信長への感謝状発見
「お味方くださること、頼もしく」(読売新聞)- Yahoo!ニュース https://t.co/5OxyYIIwQU pic.twitter.com/NI64L0J5fb— zen_mondo (@zen_mondo) January 13, 2020
上杉謙信との戦いに備える武田信玄(1521~73年)からの、織田信長(1534~82年)宛て書状が見つかった。信長の協力姿勢への謝意を伝える内容だ。書式などから信長が権力を確立した後、1570年頃に書かれたものとみられる。信玄から信長に宛てた文書の原本は希少で、戦国時代の両雄の関係をたどる上でも貴重だ。
■謙信との対決を念頭に
書状は墨書。現在は掛け軸になっている。戦国期の史料を集める一般財団法人「太陽コレクション」が2019年、書画骨董(こっとう)を扱う業者を通じて購入。
武田氏研究が専門の丸島和洋・東京都市大准教授と、信長に詳しい金子拓・東京大史料編纂(へんさん)所准教授が、信玄の花押や内容から信玄の書状と確認した。筆跡も信玄の右筆(ゆうひつ)(秘書役)と類似している。
信長からの手紙に返答する形で書かれており、「お気遣いをいただき、どのようにお礼してよいか分かりません」と信玄は切り出す。
その上で「越後(上杉氏)と甲斐(武田氏)が戦争になったら、何をおいても(信玄に)お味方くださるとのこと、頼もしく存じます」と謝意を伝えている。
日付は「七月十四日」。宛名には、敬意を示す「謹上」の言葉を添えて、「弾正忠殿(だんじょうのじょうどの)」と信長の通称のみを記す。
名字を省くのは、室町幕府高官宛ての書状にも見られる丁重な書式で、丸島准教授は、信長が足利義昭を将軍に奉じて上洛(じょうらく)し、
権力を確立した永禄11年(1568年)10月以降の書状とみる。川中島合戦後、いったん和睦した信玄と謙信は、元亀元年(1570年)10月に停戦を破棄していることから、両者の緊張が高まった同年7月に書かれた可能性が高いという。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200113-00050007-yom-ent
ネットの反応
弾正忠は通称ではなく官職名だろ。
戦国時代の駆け引きの一端をみてるようで、非常に興味深い。信玄も信長も狸親父だな
この10年後には長篠の戦いで武田は消耗して滅亡まっしぐら。
目まぐるしい状況の変化が戦国の世ならではですね。
まあ結局信玄は裏切るわけで・・・
織田側は武田が越中方面で謙信と対立するのは大歓迎だったのだろうね。
この時期に駿河から三河を狙って侵攻したら織田信長はどう対処したのか想像したら楽しいな。
とにかく織田家のみ二方面作戦が可能だった唯一の存在だったのは確かですね。
当時信長の一番恐れていたのが信玄。進物を送りその入れ物に何重にも漆を塗り信玄をたぶらかした。勝頼の正妻に養女を娶らせ、徹底的に下でに出た。あの信玄でも信長の誠意を信じたほど。信長の方が何倍も上手ってこと。こんなものが出てきても何の不思議もない。
信長の弱点は自信過剰なこと、そのため人の心が読めない。信長の歴史は裏切られの歴史。弟信行に裏切られ、義弟浅井長政に裏切られ、将軍足利義昭に裏切られ、丹波波多野長治に裏切られ、播磨別所長治に裏切られ、摂津荒木村重に裏切られ、大和松永弾正に裏切られ、最後は光秀に。裏切るにはそれなりの理由も状況もあったのだが。
信長の不思議はその裏切りを理解できずその思いに馳せる心もなかったということだ。過去を振り返らずただただ天下布武に邁進した。
この数年後、武田家滅亡へと追い込む信長。戦国の無情。
徳川への忖度なのか、織田・武田の婚姻同盟とかスルーされ過ぎ。
でもこの次の年に信長が比叡山延暦寺を焼き討ちして、2年後に信玄が信長の討伐に動き出す。
今日の味方は明日の敵って感じだな。
思惑があっての話だろう
ただこの記事はエンタメではないと思うけど?
信玄の筆跡は鑑定されてるの?
その信長が信玄の配下と息子を蜂の巣にするわけだがね(^^)
木下恵介監督の『笛吹川』を観て以来、武田信玄というと、あの映画のシーンを思い出します。戦国時代が好きな人が多いけど、何のために、あんな戦争を繰り返す必要があったか?庶民目線で考えると、最悪な時代です。
片や信長は謙信にマントなどを献上していました。
謙信に一度潰走させられたこともあり、この龍虎に媚びていたわけです。
そして寿命で死ぬのを待っていたと。
タイムスリップして勝つのは徳川と教えてあげると歴史はどうなったのやら。
武田信玄は自治体の首長としては超有能、一国の宰相としては???
このあたりは現代の政治家にもあてはまるのだろう。適材適所が大切。
そう考えれば、ポエム小泉も適材適所かな。環境省なんて独自政策を提案することは不可能だから。どうでもいい人間をどうでもいいポジションに置くのは正解。
風林火山、風林火山 甲斐の山々日に映えて我出陣に憂いなし、おのおの馬は飼いたるや~妻ごにつつがあらざるや、あら~ざあるうや~好っきやな
風林火山 私動かざること山のごとし 今や○○と太ぶととしております。
家康は本当に運の良い男だと思うわ
実際その時代に生きていた=目で見た人は居ないわけだからw結局は発見された文献で”この人はこういう人だった”で推察するしか無いので良く言われたり悪く言われたり・・・
信長に関しては悪魔だなんだ言われて居るけど最近見つかった文献とかではむしろ無茶世の中考えていたり部下の扱いに悩んだ人みたい
“第六天魔王”と言うのも信玄が俺は摩利支天だ(๑•̀ㅂ•́)و✧どや!と言ったのをなに、なら俺は第六天魔王だ(๑•̀ㅂ•́)و✧どや!と対抗して信長が言ったのが始まりとか・・・子供のおちゃめ機能?
結局最後は織田vs武田になっちゃったけどそこは当人同士と言うより世間的なこともあったんだろうね
むしろ正義の武将とか言われて居る方が良く考えると無茶苦茶だったり悲劇の人とか言われて居る方がそりゃ打たれるだろうよと言う方が多い
この書状の後、信玄は三方ヶ原で織田・徳川連合軍を破るんだよね
家康がいらんことをして、信長は仕方なく援軍を出したのかな?
武田勝頼に信長の養女を嫁がせて友好関係だった時代もありましたからね。あまり信玄に天下に号令しようという野心はなかったような気がするな。この文書からもそれを感じます。
本当かな?にわかには信じられないんだが。
メッチャ漢字だね
戦争中は平仮名でなくカタカナだし、今のような文章は戦後から?
信長・信玄のことはよくわからんが、こういった社団法人が歴史的財産の収集研究を行い、国内財産の海外流出を防いでくれることを期待する。
嘘、裏切り等は今も昔も変らない!
野蛮な時代の書状。
「だからなに?」って感じ…
ついこの間、熊本で光秀の若いころの消息が分かる文献が発見されたという話を聞きました。医薬の心得があり、高嶋田中城籠城の折、負傷兵の手当てを行い、その手法を沼田勘解由左衛門清延が聞き取って筆記し、その本を米田貞能が写本したものとのこと。
沼田勘解由左衛門清延も米田貞能も光秀と同時代で、間違いなく光秀の周辺にいたことがわかっているので、信ぴょう性はあるでしょう。
特に気になったのは、医薬の知識ですが、うちの家系も戦国時代に落城後落ち延び、のちに医薬の知識があったため本多家(忠勝)に召し抱えられたようで、以後代々医者が多く出ている。明智家もうちと同じように落城の憂き目にあっているようですので、非常に親近感を覚えます。
武田信玄は信長に塩を送ったんだっけ
信玄餅ってあるけど信長餅ってないの?