平成最後となる「終戦の日」を前に、西日本新聞に掲載された過去の記事を紹介するシリーズ。これは、国民が一方向に走ってしまう危うさを示す事例だろう。(以下の記事は2017年08月11日付で、内容は当時のものです)
戦時中、福岡県久留米市にあった旧陸軍の工兵隊に所属していた無名の若者たちが「肉弾三勇士(爆弾三勇士)」として軍神とあがめられ、熱狂的なブームとなって国威発揚に利用された。本紙の前身である福岡日日新聞も、プロパガンダに一役買った。市内に残る三勇士の跡をたどった。
三勇士とは、いずれも1等兵の江下武二(佐賀県出身)、北川丞(長崎県出身)、作江伊之助(同)の3人。1932年、日中両軍が衝突した上海事変で、導火線に火がついたままの破壊筒(爆弾)を持って敵陣の鉄条網に突入して自爆、突撃路を開いたとされる。
最初に訪れたのは、久留米市山川町の神社「山川招魂社」だ。西南戦争や太平洋戦争の戦没者の慰霊碑と並んで「爆弾三勇士之碑」がひっそりと立っていた。裏に碑文が刻まれているが、容易に判読できない。かろうじて、碑の建立時期が「昭和58年」と読める。
どれほどの人気だったのか。市史にその一端が記してある。福岡日日新聞には「壮烈三勇士の戦死 爆弾を身につけて、敵の鉄条網に躍り込んで爆死」との大見出しが躍り、
他の新聞社も競って一大キャンペーンを展開し、歌を募集したり、小学生の感想文を掲載したりした。NHKは特別番組を放送。「美談」は映画や舞台、浪曲となり、「爆弾三勇士の名は全国に響き渡り、異常な興奮を巻き起こした」という。
次は市文化財保護課の学芸員、小沢太郎さん(48)に同行してもらい、同市御井町の久留米大御井キャンパス横の九州沖縄農業研究センター久留米研究拠点を訪ねた。センターやキャンパスはかつて工兵隊の敷地。
三勇士の記念碑跡は、人目を避けるように敷地内の茂みにたたずんでいた。「耕心園」とある中央部には三勇士の銅製レリーフがはめ込んであったが、戦時中の金属回収で供出されたという。
今は存在しないが、ほかにも記念の像や建物があった。市中心部の公会堂(旧市民会館)には等身大の銅像。
御井キャンパスには、ブリヂストン創業者、石橋正二郎の寄贈で記念館が建てられ、坂本繁二郎が三勇士を描いた油絵が飾ってあったという。「坂本は一大スポンサーである正二郎の依頼を断れなかったんでしょう」と小沢さんは推測する。一部の作品は今も行方が分からないという。
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180814-00010000-nishinp-soci
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