【日本のロックフェス激闘史】
バブルがはじけて、企業がジャズ・フェスや文化イベントから軒並み撤退した90年代後半。「夢をかなえるには口出しするスポンサーなんか要らない」と“フジロック丸”を船出させたスマッシュ代表、日高正博氏。
“自然の中の音楽祭”を実現させようと、山梨・富士天神平スキー場を会場に選んだ第1回はまさかの台風直撃。レッド・ホット・チリ・ペッパーズらを楽しみに集まった観衆は右往左往。
会場から出る一本道は参加者の違法駐車で河口湖駅から客をピストン輸送するバスが立ち往生。すべて初体験で雨具も防寒服もない観衆は次々ダウン。主催者も行政や関係各所からの勧告、近隣から殺到する苦情にやむなく2日目の開催を中止した。
そんな中、元クラッシュのジョー・ストラマーは雷鳴轟く丘の上のDJテントで、びしょぬれ、へとへとの30人のキッズを励まし「落雷したらみんなでロックンロール・ヘブンに行こうぜ!」と朝まで盛り上げた。知る人ぞ知るフジ・ロック神話だ。
切符の払い戻し、出演できなくなった出演者へのキャンセル料…。「破産を覚悟した」と日高氏。ところがスタッフが興行保険を手続き済み。台無しになった芝生の修理代の程度で済んだおかげで今のフジロックがあるわけだ。
第2回は東京・豊洲のベイサイド・スクエア。忌野清志郎、エルビス・コステロらを見ようと大勢が集まったが今度の敵は猛暑。熱中症が相次ぎマスコミが殺到。良くも悪くも注目された。そんな艱難辛苦を越え、ついに自然と共生する音楽祭の夢がかなったのは新潟・苗場スキー場で開催が実現した第3回から。
ニール・ヤング、エミネム、オアシスがそろった2001年は海外メディアが驚嘆し“世界のフジロック”に。ニール見たさで会場に侵入した強者も出たが、あえなく御用。意気に感じたスタッフが「来年は切符買って来てくださいね」とゲストパスをプレゼントするという“神対応”も。
27~29日開催の今年は“キング・オブ・フジロック”キヨシローの仲間、仲井戸麗市、奥田民生、トータス松本、甲本ヒロトが共演するルート16や裏女王の加藤登紀子、永遠の魔女サンディーら総出演200組。ジョー、天国で目を回すんじゃないよ。回すのはお気に入りのディスクでいいぜ、あの嵐の夜のように…。
■室矢憲治(むろや・けんじ) 東京都生まれ、ニューヨーク育ち。ビートルズ、ボブ・ディランをリアルタイムで体験し、片岡義男らと「ワンダーランド」を創刊。「宝島」「朝日ジャーナル」などにロックライターとして寄稿。
詩人、メディア・パーソナリティーとしても活躍している。『’67~’69ロックとカウンターカルチャー激動の3年間/サマー・オブ・ラブからウッドストックまで』(河出書房新社)が電子版ともに好評発売中だ(本連載の資料協力=北中正和、久信田浩之、花房浩一、山岸伸一、高瀬由起夫の各氏)
引用元: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180714-00000020-ykf-ent
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